お茶について

「お茶」と一口に言っても麦茶、抹茶、そして紅茶、世界には色々なお茶があります。

皆さんは、普段どんな時にお茶を飲みますか?

仕事中の一杯、寒い時の一杯、あるいは友人とカフェで飲む一杯。
お茶を一口飲んだ時、ホッと和らいで緊張がほぐれることも多いことでしょう。

一方、「茶道」にはどんなイメージがあるでしょう?

苦い抹茶を、皆で黙々と、狭い茶室で、飲む儀式。
作法が難しくて、茶碗も高い、何が良いのかよく分からない。
緊張する、堅苦しい、お金がかかる。

多くの方は、そんなイメージがあると思います。

ティー・タイムに飲む、リラックスした一杯。
ティー・セレモニー(茶道)で飲む、緊張した一杯。

同じ一杯でも、全然違う一杯ですね。

茶室にて

茶室にて

茶の湯

茶の湯(茶道)

茶道の原点

茶道=取っ付きにくい、と感じるのはなぜでしょう?

特別なお茶、特別な作法、特別な道具、特別な部屋。
茶道は、そのどれもが日常の生活とは異なる、いわば「非日常」だからです。

非日常」の空間で、緊張感を持ってお茶を飲むこと

これを茶道では「おもてなし」と考えます。

一般的な「おもてなし」のイメージは「まるで自分の家にいるように」、
客人(ゲスト)にくつろいでもらい、楽しんでもらうこと、でしょう。

「おもてなし」という言葉は、茶道とそれ以外では、正反対の意味になります。
茶道では「緊張」、一般的には「リラックス」です。

なぜ「茶道」は一見、非常識な「おもてなし」を追求するのでしょう?

これには、茶道が生まれた時代背景が関係しています。

「茶道」を確立したのは、豊臣秀吉のお抱え茶師:千利休です
時は、戦国~安土桃山時代。当時は階級社会でした。
武士・商人・農民、身分(上下関係)の違いがはっきりあります。

そんな「日常」では、「おもてなし」をしようとすると否が応でも相手の身分を意識します。それは仕方のないことであり、当時は普通のことであったでしょう。

しかし、相手の身分に関係なく、同じ時間を過ごす「おもてなし」をしたい。
そのために、あえて「非日常」の空間(茶室)をつくり、密かに集ってお茶を飲む。

当時の茶室は、窓がないため、外から覗かれる心配はありません。
そして茶室の出入りは狭い戸口のみであり、武士は刀を預けて丸腰で入室する決まりでした。当時の茶室は、いわば隠れ家(シェルター)だったのです。

隣の人の息遣いが聞こえる狭い茶室で、同じ作法を共有しながら飲むお茶。
一見、不自由に見えますが、それは殿様も商人も皆同じです。

茶室では、同席する相手への身分を超えた敬意(リスペクト)が培われました。もてなす側も、もてなされる側も、互いに敬意を持っていたのです。

現代では「法の下の平等」ですが、当時は「茶室の中の平等」を目指していた、と言えます。

茶道を取り巻く環境の変化

「茶室の中の平等」に大きな意味があったのは、身分社会(不平等な日常)だったからです。
茶道の作法は一見すると煩雑ですが、これはルールとして必要でした。作法があることで、茶室(閉鎖的な空間)の中に「秩序」が生まれたのです。

「法の下の平等」が保障された現代の日本は、身分社会(階級社会)ではなくなりました。わざわざ茶室でなくても「平等・秩序」を享受できるのです。

茶道は、当初の役割を終えた、と言えるかもしれません。

茶室という密室で営まれる以上、茶道にはどうしても閉鎖的な性質があります。茶道独特の作法は一人で学ぶことは出来ないので、先生に習う必要があります。また、茶碗・茶杓などの特別な道具をそろえるためには、お金がかかります。

そうなると、現代において茶道が出来るのは「金銭的・時間的に余裕のある人たち」に限られてしまいます。茶道は普通の人には縁のない「金持ちの道楽・社交場」と言われてしまうのも無理はありません。

茶道の価値観

私(寺尾)が茶道の稽古をしているのは、茶道の価値観に魅力を感じているからです。

茶道の本質は、「わびさび」と言われます。

「わび」とは、侘(わび)しい=簡素なこと(Simplicity)。
「さび」とは、寂(さび)しい=静かなこと(Serenity)。

意訳すると「簡素な、そして静寂の中に、喜びや美を見出す」となるでしょうか。
シンプルであること、賑やかなところから離れて静かなこと、つまり「自然あるがまま」の状態に価値があると考えます。

この茶道の価値観は、「禅」の思想が根底にあります。
「禅」と茶道は、共に「ありのまま」の状態を良しとする価値観を持ちます。

茶道の起源である「お茶を飲む習慣」は、禅宗の教えと共に中国から日本に伝わりました。そして「禅」(曹洞宗)の修行は、人里離れた静かな山の中(永平寺)で行われます。

「禅」の修行は、悟りを得るためにするのではありません。「悟り」とは、自我も価値判断もない「ただあるがまま」の状態です。

つまり、「禅」と茶道は「わびさび」の精神を共有していると言えます。

このことは、作法についても言えます。
「禅」には、厳格な作法(座禅の方法~箸の持ち方・食べ方に至るまで)があります。
その作法に従い、修行することで、悟り(あるがまま)の状態になります。この時、自他の区別はありません。

茶道にも、細かな作法(入室~お茶のたて方・頂き方~退室に至るまで)があります。
茶道の作法も、皆がその作法に従ってお茶を頂くことで、悟り(あるがまま)の状態が茶室に生まれます。この時、もてなす側・もてなされる側の区別はありません。

「禅」も茶道も、目指すところ(あるがまま)は同じであって、単に場所・手段が異なるだけ、と言えるかもしれません。

現代の茶道について

茶道は、疑いなく日本文化の形成の上で大きな役割を担っています。それは茶道がさまざまな日本文化を総合したところに成り立っているからでしょう。千家十職と言われる茶道に直接関係する職人の仕事はそれぞれが芸術です。他にも着物や工芸など、茶道を支え成り立たせている伝統産業の数は計り知れないぐらいあります。茶道はこれらの産業のおかげを受けていますが、逆に言えば茶道なくして諸々の伝統産業は成り立たなくなっているのです。茶道の衰退によっては、日本の伝統産業も衰退、壊滅する恐れがあります。この点に於いても、今後の茶道の発展は日本文化の維持発展にとっては実現すべき不可欠の条件と言えるでしょう。

私は茶道に絶大な魅力を感じて稽古をしています。そのため、今後も茶道の今後の発展を切に期待しています。名称に関しては、どちらかといえば利休以前の「茶の湯」という呼び方の方を好みます。それは、「茶道」よりも「茶の湯」の名称の方が、利休が目ざした境地をよく表しているからです。私は利休の目ざした境地の実現こそを稽古の目標にしたいと考えています。

では利休の目ざした境地とは何でしょうか。現在の私にはまだよく分かりません。ただ、これまで茶道に関するいくつかの文献を読んでみて惹かれる考え方も見つかりました。そのひとつを示して、私自身の、今後の稽古の目標にしたいと思います。

茶人・久松真一のことば

禅僧で哲学者、そして茶の湯の愛好者であった久松真一(1889-1980)氏が、現在の茶道がとるべき視座(目ざすべき境地)を次のように述べています。

ここでは久松氏の記述を引用するだけでまとめることはしません。どの様な深い意味を持っているのか、何を主張しておられるのかを繰り返し解釈しながら、今後の茶道の発展を期すべきではないかと考えます。

久松真一氏は、論文「日本の文化的使命と茶道」の中で次のように述べています。

「今日の茶道の急務は、茶道の本義たる侘(わび)の精神に徹して、それを生かして、新しい創造の主体を確立することであります。それには、茶に関心を持っているもの、ことに専門茶人が、まずその急務をよく自覚して、侘の精神を自他に生かす仕方を工夫することである。今日のような茶のやり方では、ただ茶道の形式を習い、せいぜいその通りに上手にやるようになるというだけのことで、形式を創造する侘の根源的主体に体達することはできない。それでありますから、今日はいかにしてかような主体に体達するかの方法が工夫されねばならぬと思います。現在の茶道のいろいろの欠陥をはっきりつかんで、それから改めていくようにしなければならぬと思います。」(久松真一『茶道の哲学』講談社学術文庫、1987、26-27頁)

そして、茶道が改革していくべき点として以下のように指摘しています。(同、27-28頁)

■ 茶の発達を妨げている問題点

1…今日は真の茶道の自覚、本当の茶人としての自覚が欠如している。茶人としての本当の使命が感じられていない。

2… 侘(わび)の創造性が全く欠如している。

3…茶道の本質に対する認識(茶の湯の学問性)が欠如している。

4…茶道が生活から全く遊離してしまっている。そのため民衆性、庶民性がなく封建的である。

■ 茶の作法の問題点

1…手前が必要以上に煩瑣で、精神が喪われた手先の芸に堕してしまっている。そのため一般の生活の上に生きてこない。

■ 茶道文化発展の新しい契機を追求

1…日本で本当の茶道文化を創造していくと同時に、欧米(外国)に新しい文化創造の活路の契機を与えていく。

2…茶道人はまず自主的創造性を以て茶道文化の内容を豊かにしなければならない。また茶道に関心を持つ一般人も、間違った茶道に同調することなく、批判的態度をもって本当の茶道の雰囲気を作っていく必要がある。

哲学者・鈴木大拙のことば

「禅の茶道に通うところは、いつも物事を単純化せんとするところに在る。この不必要なものを除き去ることを、禅は究極実在の直角的把握によって成しとげ、茶は茶室内の喫茶によって典型化せられたものを生活上のものの上に移すことによって成しとげる。茶は原始的単純性の洗練美化である。自然に親しむというその理想を実現するために、茅の屋根の下に身を寄せ、わずか四畳半ではあるが構造とちょうどに技巧を凝らした小屋に坐るのである。禅の狙うところも、人類が己を勿体づけるために工夫したと思われるような、いっさいの人為的な覆いものをはぎとる点にある。」(鈴木大拙著・北川桃雄訳『禅と日本文化』岩波新書、121頁。)

「茶の湯はその実際的な発展の上ばかりでなく、おもにその作法を通して流れる精神をたっとぶ上で、禅と密接な関係にあることをわれわれは知るのである。この精神は、感情上の用語でいえば、「和・敬・清・寂」からなる。これらの四要素は、茶の湯の首尾をまっとうするために必要であり、いずれもみな、同胞相親しむ、秩序的な生活の本質をなす成分であるが、この生活とは禅寺の生活に他ならない。」(同、124頁。)

■ 和)とは?

「調和(harmony)の和は和悦(gentleness of spirit)の和とも読める。思うに、この意味の和こそ茶の湯の行程全体を支配する精神をさらによく表しているようだ。調和は形の方を意味するが、和悦は内的感情を示唆する。総じて茶室の雰囲気はむしろこの種の和を周囲につくりだすことである。」(同、125頁。)

■ 敬)とは?

「『敬』とは元来宗教的感情ー憐れむべき死に身たるわれわれ以上の存在物に対する感情である。(中略)この感情をその本来の意味にさかのぼって分析すると、自己の無価値への反省、すなわち、肉体的にも知力的にも、道徳的にも精神的にも、その有限性の自覚となる。この自覚が自己を超越したいという念、できるだけ反対の形をとってわれわれに対立するところの存在と接触したいという念を心中にひき起こす。この熱望はわれわれの精神的の動きをわれわれの外なるものの方にむかわせるが、それがそれて自己に向かうと自己否定、慚愧、健常、罪悪感となる。これらはみな消極的の徳であるが、積極的には敬、他人を蔑ろにせぬ感情となる。」(同、130頁。)

■ 清)とは?

「茶の湯の精神を作る一つと考えられている『清』は日本的心理の寄与であるといってよい。清は清潔であり、ときとして整頓であり、茶の湯と関係するいかなる事、いかなる場所にもこれを窺うことができる。露地と称する茶庭では清水を自由に使用するが、自然の流水をできぬ場合には手ぢかに石の手洗鉢がある。茶室に一塵も止めぬはいうまでもないことである。」(同、132頁。)

■ 寂)とは?

「寂は日本語の’さび’である。が、’さび’は静寂より内容が広い。寂にあたる梵語のSantiは事実『静寂』『平和』『静隠』を意味し、寂はしばしば仏典では『死』または『涅槃』を指すために用いられてきた。しかし、この語が茶の湯に用いられる時には、その指すところは『貧困』『単純化』『孤絶』などにちかく、ここに’さび’は’わび’と同一語となる。」(同、136頁。)

■ 侘び)とは?

「そこでわびの生活はかように定義されよう。貧乏のうちに深く蔵されているところの、言葉では表しがたい静かなよろこび、と。茶の湯はこの観念を芸術的に表現しようというのである。」(同、138頁。)

About tea

Even if we say “tea” in a single word, there are many different types of tea in the world, such as barley tea, powdered green tea, and black tea.

When do you usually drink tea?

A cup while you’re working, a cup when it’s cold, or a cup with friends at a cafe.
When you take a sip of tea, you often feel relaxed and your tension eases.

On the other hand, what kind of image do you have of “tea ceremony”?

A ceremony where everyone drinks bitter powdered green tea in silence in a small tea room.
The manners are difficult, the bowls are expensive, and you don’t really understand what’s good about it.
It’s tense, stuffy, and expensive.

I think many people have this kind of image.

A relaxing cup of tea to drink during tea time.
A tense cup of tea to drink during a tea ceremony (sadou).

Even though they’re the same cup of tea, they’re completely different.

In a tea ceremony room Chanoyu (tea ceremony)

茶室にて

茶の湯

The origins of the tea ceremony

Why do you think the tea ceremony is perceived as being difficult to approach?

Special tea, special manners, special utensils, special rooms.
This is because all of these things are different from everyday life, or in other words, “extraordinary”.

In an “extraordinary space, drinking tea with a sense of tension

is considered ‘Omotenashi’ in the tea ceremony.

The general image of ‘Omotenashi’ is to make your guests
feel at home and enjoy themselves.

The word ‘Omotenashi’ has the opposite meaning in the tea ceremony and in other situations.
In the tea ceremony, it means “tension”, and in general, it means “relaxation”.

Why does the tea ceremony pursue an apparently insane concept of “omotenashi”?

This has to do with the historical background of the tea ceremony.

The tea ceremony was established by Sen no Rikyu, the tea master in the service of Toyotomi Hideyoshi.
This was during the Warring States period and Azuchi-Momoyama period. At that time, it was a class-based society.
There was a clear difference in status (hierarchy) between samurai, merchants and farmers.

In such an “everyday” situation, when you try to offer “Omotenashi”, you can’t help but be conscious of the other person’s status. This was unavoidable, and at the time it would have been a normal thing to do.

However, you want to offer “Omotenashi” to spend time together regardless of the other person’s status.
To do this, you deliberately create a space (tea room) that is “extraordinary”, and secretly gather together to drink tea.

As the tea rooms of the time had no windows, there was no need to worry about being spied on from outside.
And as the only way in and out of the tea room was through a narrow doorway, it was customary for samurai to leave their swords outside and enter unarmed. In this way, the tea room of the time was a kind of shelter.

In a small tea room where you could hear the breathing of the person next to you, you would drink tea while sharing the same manners.
At first glance, it seems like a rather inconvenient way to drink tea, but this was the same for lords and merchants alike.

In the tea room, a respect that transcended social status was cultivated for those present. Both the host and the guests had mutual respect for each other.

In modern times, we have “equality under the law”, but at the time, we could say that they were aiming for “equality within the tea room”.

Changes in the environment surrounding the tea ceremony

The reason why “equality within the tea room” was so important was because it was a society based on social status (an unequal everyday life).
At first glance, the manners and customs of the tea ceremony may seem complicated, but they were necessary as rules. The existence of these rules created a sense of ‘order’ within the tea room (a closed space).

In modern Japan, where ‘equality under the law’ is guaranteed, we no longer live in a class-based society. We can enjoy ‘equality and order’ without going to the trouble of going to a tea room.

It could be said that the tea ceremony has fulfilled its original role.

As it is practiced in the closed space of a tea room, the tea ceremony has an inherently closed-off nature. The unique manners of the tea ceremony cannot be learned alone, so it is necessary to learn from a teacher. In addition, it costs money to prepare the special utensils such as tea bowls and tea scoops.

As a result, in the modern age, the tea ceremony is limited to those who have the financial and time resources to do it. It is not surprising that the tea ceremony is seen as a hobby for the rich and a social gathering place for the wealthy, and not something that ordinary people can relate to.

The values of the tea ceremony

The reason I (Terao) practice the tea ceremony is because I find its values appealing.

The essence of the tea ceremony is said to be “wabisabi”.

Wabi“ means ‘wabi’ = simple (simplicity).
”Sabi” means ‘sabi’ = quiet (serenity).

If we were to translate it into English, it would be something like “finding joy and beauty in simplicity and tranquility”.
The value lies in being simple, being away from the hustle and bustle of the city and being quiet, in other words, in being “natural”.

The values of the tea ceremony are based on the philosophy of Zen.
Both Zen and the tea ceremony share the same values of appreciating things as they are.

The custom of drinking tea, which is the origin of the tea ceremony, was introduced to Japan from China along with the teachings of Zen Buddhism. And the practice of Zen (Soto Zen) is carried out in a quiet mountain retreat far from the hustle and bustle of the city (Eiheiji Temple).

The practice of Zen is not done in order to gain enlightenment. Enlightenment is a state of being where there is no ego or value judgments, just as things are.

In other words, it can be said that Zen and the tea ceremony share the spirit of wabi-sabi.

This can also be said of the manners involved.
Zen has strict manners (from the way of doing zazen to how to hold chopsticks and eat).
By following these manners and practicing accordingly, you will reach a state of enlightenment (being as you are). At this time, there is no distinction between self and others.

There are also detailed manners in the tea ceremony (from entering the room to making and drinking tea to leaving the room).
By everyone following the tea ceremony manners and drinking tea, a state of enlightenment (as it is) is born in the tea room. At this time, there is no distinction between the host and the guest.

It could be said that the aim of both Zen and the tea ceremony is the same (being as it is), and that the only difference is the place and the means.

About the tea ceremony in the modern age

The tea ceremony undoubtedly plays a major role in the formation of Japanese culture. This is probably because the tea ceremony is based on the synthesis of various aspects of Japanese culture. The work of the artisans directly involved in the tea ceremony, known as the Ten Craftsmen of the Senke School, is an art in itself. There are also countless other traditional industries that support and make up the tea ceremony, such as kimono and crafts. The tea ceremony is indebted to these industries, but conversely, without the tea ceremony, these traditional industries would not be able to exist. If the tea ceremony were to decline, there is a risk that Japan’s traditional industries would also decline and even be destroyed. In this respect too, the future development of the tea ceremony can be said to be an essential condition for the maintenance and development of Japanese culture.

I practice tea ceremony because I find it extremely attractive. For this reason, I sincerely hope that tea ceremony will continue to develop in the future. As for the name, I prefer the term “chanoyu” as used before the time of Rikyu. This is because the term “chanoyu” better expresses the state of mind that Rikyu was aiming for than the term “sadou”. I would like to make the realization of the state of mind that Rikyu was aiming for the goal of my practice.

So, what was the state of mind that Rikyu was aiming for? At the moment, I don’t really understand. However, I have read some literature on the tea ceremony and found some ideas that have attracted me. I would like to show one of these ideas and make it my goal for future practice.

The words of tea master Shinichi Hisamatsu

Zen priest, philosopher and tea ceremony enthusiast Shinichi Hisamatsu (1889-1980) described the perspective (the goal) that the tea ceremony should take in the following way.

Here, we will not summarize by simply quoting from Hisamatsu’s writings. We think that we should look forward to the future development of the tea ceremony while repeatedly interpreting what kind of deep meaning it has and what he is trying to assert.

In his paper “The Cultural Mission of Japan and the Way of Tea”, Shinichi Hisamatsu states the following

“The urgent task of the Way of Tea today is to establish a new creative subject by thoroughly embracing the spirit of wabi, which is the true meaning of the Way of Tea. To do this, those who are interested in tea, and in particular professional tea masters, must first be fully aware of this urgent task and devise ways to make the spirit of wabi useful for themselves and others. With the way tea is practiced today, people can only learn the formalities of the tea ceremony and at best become skilled at performing them, but they cannot become the fundamental subjects of wabi who create the form. For this reason, I think that we must devise a method for how to become such subjects today. I think that we must clearly grasp the various flaws in the tea ceremony today and then work to fix them. (Shinichi Hisamatsu, “The Philosophy of the Way of Tea”, Kodansha Gakujutsu Bunko, 1987, pp.26-27)

He then points out the following points that the Way of Tea should reform. (ibid., pp.27-28)

■ Issues that are hindering the development of the Way of Tea

1… Today, there is a lack of awareness of the true Way of Tea and of what it means to be a true tea master. People do not feel their true mission as tea masters.

2… There is a complete lack of creativity in the wabi aesthetic.

3… There is a lack of understanding of the true nature of the tea ceremony (the academic nature of chanoyu).

4… The tea ceremony has become completely divorced from everyday life. As a result, it has lost its popular appeal and is now feudalistic.

■ Problems with the manners of the tea ceremony

1…The tea ceremony has become overly complicated and has degenerated into a mere display of skill, losing its spiritual significance. As a result, it has become detached from ordinary life.

Pursuing a new opportunity for the development of tea ceremony culture

1…At the same time as creating a true tea ceremony culture in Japan, we must also provide a new opportunity for the creation of culture in the West (foreign countries).

2…Tea ceremony practitioners must first enrich the content of the tea ceremony culture with their own creativity. In addition, ordinary people who are interested in the tea ceremony must also create an atmosphere of true tea ceremony with a critical attitude, without being swayed by mistaken ideas of the tea ceremony.

Words of the philosopher D. T. Suzuki

“The essence of the Zen tea ceremony is to simplify things. Zen achieves this by removing unnecessary things through a direct grasp of ultimate reality, while the tea ceremony achieves this by transferring what is typified by the tea ceremony room to everyday life. Tea is the refinement and beautification of primitive simplicity. In order to realize this ideal of being close to nature, we huddle under a thatched roof and sit in a hut with a structure and technique that are just right, even though it is only 4.5 tatami mats in size. The aim of Zen is also to strip away all artificial coverings, which seem to have been devised by humanity to make itself feel important.

“We know that the tea ceremony is closely related to Zen not only in terms of its practical development, but also in terms of the spirit that flows through its etiquette. This spirit, in emotional terms, consists of harmony, respect, purity and tranquility. These four elements are necessary for the success of the tea ceremony, and all of them are components that form the essence of an orderly life in which people of the same race can get along well with each other, and this life is none other than the life of a Zen temple.

■ What does “wa” mean?

“The word harmony (wa) can also be read as the word for gentleness of spirit (waetsu). I think that this meaning of harmony is even more expressive of the spirit that governs the whole process of chanoyu. Harmony refers to form, while waetsu suggests inner feeling. In general, the atmosphere of the tea room is to create this kind of harmony around it.” (ibid., p.125)

■ Respect (kei)

“The word ‘respect’ originally refers to a religious sentiment – a sentiment towards beings that are more than ourselves, beings that are pitiful and mortal. (omission) If we analyze this sentiment by going back to its original meaning, we find that it is a reflection on our own worthlessness, in other words, an awareness of our own finitude, whether physically, intellectually, morally or spiritually. This awareness gives rise to a desire to transcend oneself, to come into contact with beings that oppose us in as many ways as possible. This yearning directs our spiritual movements towards things outside ourselves, but when it turns inwards it becomes self-denial, remorse, healthiness and a sense of guilt. These are all negative virtues, but in a positive sense they become feelings of respect and not looking down on others. (ibid., p.130)

■ What is “seiyō”?

Seiyō, which is thought to be one of the elements that make up the spirit of chanoyu, is a contribution of the Japanese psyche. Sei is cleanliness, and at times tidiness, and this can be seen in anything and anywhere related to chanoyu. In a tea garden called a roji, water is used freely, but if natural running water is not available, there is a washbasin made of stone nearby. It goes without saying that not a single speck of dust is allowed in the tea room.

■ What is (jaku)?

Jaku is the Japanese word sabi. However, the meaning of ‘sabi’ is broader than that of ‘shijaku’. The Sanskrit word ‘santi’, which corresponds to ‘sabi’, actually means ‘tranquility’, ‘peace’ and ‘quiet seclusion’, and the word ‘sabi’ has often been used in Buddhist texts to refer to ‘death’ or ‘Nirvana’. However, when this word is used in the context of chanoyu, it refers to concepts such as ‘poverty’, ‘simplification’ and ‘isolation’, and in this context, ‘sabi’ is the same word as ‘wabi’. (ibid., p. 136.)

What is wabi?

“So, the life of wabi can be defined as follows: a quiet joy that is deeply hidden in poverty and is difficult to express in words. The tea ceremony aims to express this concept artistically.” (ibid., p. 138.)