◇ お茶について

「お茶」と一口に言っても麦茶、抹茶、そして紅茶、世界には色々なお茶があります。

皆さんは、普段どんな時にお茶を飲みますか?

仕事中の一杯、寒い時の一杯、あるいは友人とカフェで飲む一杯。
お茶を一口飲んだ時、ホッと和らいで緊張がほぐれることも多いことでしょう。

一方、「茶道」にはどんなイメージがあるでしょう?

苦い抹茶を、皆で黙々と、狭い茶室で、飲む儀式。
作法が難しくて、茶碗も高い、何が良いのかよく分からない。
緊張する、堅苦しい、お金がかかる。

多くの方は、そんなイメージがあると思います。

ティー・タイムに飲む、リラックスした一杯。
ティー・セレモニー(茶道)で飲む、緊張した一杯。

同じ一杯でも、全然違う一杯ですね。

茶室にて

茶室にて

茶の湯

茶の湯(茶道)

◇ 茶道の原点

茶道=取っ付きにくい、と感じるのはなぜでしょう?

特別なお茶、特別な作法、特別な道具、特別な部屋。
茶道は、そのどれもが日常の生活とは異なる、いわば「非日常」だからです。

非日常」の空間で、緊張感を持ってお茶を飲むこと

これを茶道では「おもてなし」と考えます。

一般的な「おもてなし」のイメージは「まるで自分の家にいるように」、
客人(ゲスト)にくつろいでもらい、楽しんでもらうこと、でしょう。

「おもてなし」という言葉は、茶道とそれ以外では、正反対の意味になります。
茶道では「緊張」、一般的には「リラックス」です。

なぜ「茶道」は一見、非常識な「おもてなし」を追求するのでしょう?

これには、茶道が生まれた時代背景が関係しています。

「茶道」を確立したのは、豊臣秀吉のお抱え茶師:千利休です
時は、戦国~安土桃山時代。当時は階級社会でした。
武士・商人・農民、身分(上下関係)の違いがはっきりあります。

そんな「日常」では、「おもてなし」をしようとすると否が応でも相手の身分を意識します。それは仕方のないことであり、当時は普通のことであったでしょう。

しかし、相手の身分に関係なく、同じ時間を過ごす「おもてなし」をしたい。
そのために、あえて「非日常」の空間(茶室)をつくり、密かに集ってお茶を飲む。

当時の茶室は、窓がないため、外から覗かれる心配はありません。
そして茶室の出入りは狭い戸口のみであり、武士は刀を預けて丸腰で入室する決まりでした。当時の茶室は、いわば隠れ家(シェルター)だったのです。

隣の人の息遣いが聞こえる狭い茶室で、同じ作法を共有しながら飲むお茶。
一見、不自由に見えますが、それは殿様も商人も皆同じです。

茶室では、同席する相手への身分を超えた敬意(リスペクト)が培われました。もてなす側も、もてなされる側も、互いに敬意を持っていたのです。

現代では「法の下の平等」ですが、当時は「茶室の中の平等」を目指していた、と言えます。

◇ 茶道を取り巻く環境の変化

「茶室の中の平等」に大きな意味があったのは、身分社会(不平等な日常)だったからです。
茶道の作法は一見すると煩雑ですが、これはルールとして必要でした。作法があることで、茶室(閉鎖的な空間)の中に「秩序」が生まれたのです。

「法の下の平等」が保障された現代の日本は、身分社会(階級社会)ではなくなりました。わざわざ茶室でなくても「平等・秩序」を享受できるのです。

茶道は、当初の役割を終えた、と言えるかもしれません。

茶室という密室で営まれる以上、茶道にはどうしても閉鎖的な性質があります。茶道独特の作法は一人で学ぶことは出来ないので、先生に習う必要があります。また、茶碗・茶杓などの特別な道具をそろえるためには、お金がかかります。

そうなると、現代において茶道が出来るのは「金銭的・時間的に余裕のある人たち」に限られてしまいます。茶道は普通の人には縁のない「金持ちの道楽・社交場」と言われてしまうのも無理はありません。

◇ 茶道の価値観

私(寺尾)が茶道の稽古をしているのは、茶道の価値観に魅力を感じているからです。

茶道の本質は、「わびさび」と言われます。

「わび」とは、侘(わび)しい=簡素なこと(Simplicity)。
「さび」とは、寂(さび)しい=静かなこと(Serenity)。

意訳すると「簡素な、そして静寂の中に、喜びや美を見出す」となるでしょうか。
シンプルであること、賑やかなところから離れて静かなこと、つまり「自然あるがまま」の状態に価値があると考えます。

この茶道の価値観は、「禅」の思想が根底にあります。
「禅」と茶道は、共に「ありのまま」の状態を良しとする価値観を持ちます。

茶道の起源である「お茶を飲む習慣」は、禅宗の教えと共に中国から日本に伝わりました。そして「禅」(曹洞宗)の修行は、人里離れた静かな山の中(永平寺)で行われます。

「禅」の修行は、悟りを得るためにするのではありません。「悟り」とは、自我も価値判断もない「ただあるがまま」の状態です。

つまり、「禅」と茶道は「わびさび」の精神を共有していると言えます。

このことは、作法についても言えます。
「禅」には、厳格な作法(座禅の方法~箸の持ち方・食べ方に至るまで)があります。
その作法に従い、修行することで、悟り(あるがまま)の状態になります。この時、自他の区別はありません。

茶道にも、細かな作法(入室~お茶のたて方・頂き方~退室に至るまで)があります。
茶道の作法も、皆がその作法に従ってお茶を頂くことで、悟り(あるがまま)の状態が茶室に生まれます。この時、もてなす側・もてなされる側の区別はありません。

「禅」も茶道も、目指すところ(あるがまま)は同じであって、単に場所・手段が異なるだけ、と言えるかもしれません。

◇ 現代の茶道について

茶道は、疑いなく日本文化の形成の上で大きな役割を担っています。それは茶道がさまざまな日本文化を総合したところに成り立っているからでしょう。千家十職と言われる茶道に直接関係する職人の仕事はそれぞれが芸術です。他にも着物や工芸など、茶道を支え成り立たせている伝統産業の数は計り知れないぐらいあります。茶道はこれらの産業のおかげを受けていますが、逆に言えば茶道なくして諸々の伝統産業は成り立たなくなっているのです。茶道の衰退によっては、日本の伝統産業も衰退、壊滅する恐れがあります。この点に於いても、今後の茶道の発展は日本文化の維持発展にとっては実現すべき不可欠の条件と言えるでしょう。

私は茶道に絶大な魅力を感じて稽古をしています。そのため、今後も茶道の今後の発展を切に期待しています。名称に関しては、どちらかといえば利休以前の「茶の湯」という呼び方の方を好みます。それは、「茶道」よりも「茶の湯」の名称の方が、利休が目ざした境地をよく表しているからです。私は利休の目ざした境地の実現こそを稽古の目標にしたいと考えています。

では利休の目ざした境地とは何でしょうか。現在の私にはまだよく分かりません。ただ、これまで茶道に関するいくつかの文献を読んでみて惹かれる考え方も見つかりました。そのひとつを示して、私自身の、今後の稽古の目標にしたいと思います。

◇ 茶人・久松真一のことば

禅僧で哲学者、そして茶の湯の愛好者であった久松真一(1889-1980)氏が、現在の茶道がとるべき視座(目ざすべき境地)を次のように述べています。

ここでは久松氏の記述を引用するだけでまとめることはしません。どの様な深い意味を持っているのか、何を主張しておられるのかを繰り返し解釈しながら、今後の茶道の発展を期すべきではないかと考えます。

久松真一氏は、論文「日本の文化的使命と茶道」の中で次のように述べています。

「今日の茶道の急務は、茶道の本義たる侘(わび)の精神に徹して、それを生かして、新しい創造の主体を確立することであります。それには、茶に関心を持っているもの、ことに専門茶人が、まずその急務をよく自覚して、侘の精神を自他に生かす仕方を工夫することである。今日のような茶のやり方では、ただ茶道の形式を習い、せいぜいその通りに上手にやるようになるというだけのことで、形式を創造する侘の根源的主体に体達することはできない。それでありますから、今日はいかにしてかような主体に体達するかの方法が工夫されねばならぬと思います。現在の茶道のいろいろの欠陥をはっきりつかんで、それから改めていくようにしなければならぬと思います。」(久松真一『茶道の哲学』講談社学術文庫、1987、26-27頁)

そして、茶道が改革していくべき点として以下のように指摘しています。(同、27-28頁)

■ 茶の発達を妨げている問題点

1…今日は真の茶道の自覚、本当の茶人としての自覚が欠如している。茶人としての本当の使命が感じられていない。

2… 侘(わび)の創造性が全く欠如している。

3…茶道の本質に対する認識(茶の湯の学問性)が欠如している。

4…茶道が生活から全く遊離してしまっている。そのため民衆性、庶民性がなく封建的である。

■ 茶の作法の問題点

1…手前が必要以上に煩瑣で、精神が喪われた手先の芸に堕してしまっている。そのため一般の生活の上に生きてこない。

■ 茶道文化発展の新しい契機を追求

1…日本で本当の茶道文化を創造していくと同時に、欧米(外国)に新しい文化創造の活路の契機を与えていく。

2…茶道人はまず自主的創造性を以て茶道文化の内容を豊かにしなければならない。また茶道に関心を持つ一般人も、間違った茶道に同調することなく、批判的態度をもって本当の茶道の雰囲気を作っていく必要がある。

◇ 哲学者・鈴木大拙のことば

「禅の茶道に通うところは、いつも物事を単純化せんとするところに在る。この不必要なものを除き去ることを、禅は究極実在の直角的把握によって成しとげ、茶は茶室内の喫茶によって典型化せられたものを生活上のものの上に移すことによって成しとげる。茶は原始的単純性の洗練美化である。自然に親しむというその理想を実現するために、茅の屋根の下に身を寄せ、わずか四畳半ではあるが構造とちょうどに技巧を凝らした小屋に坐るのである。禅の狙うところも、人類が己を勿体づけるために工夫したと思われるような、いっさいの人為的な覆いものをはぎとる点にある。」(鈴木大拙著・北川桃雄訳『禅と日本文化』岩波新書、121頁。)

「茶の湯はその実際的な発展の上ばかりでなく、おもにその作法を通して流れる精神をたっとぶ上で、禅と密接な関係にあることをわれわれは知るのである。この精神は、感情上の用語でいえば、「和・敬・清・寂」からなる。これらの四要素は、茶の湯の首尾をまっとうするために必要であり、いずれもみな、同胞相親しむ、秩序的な生活の本質をなす成分であるが、この生活とは禅寺の生活に他ならない。」(同、124頁。)

■ 和)とは?

「調和(harmony)の和は和悦(gentleness of spirit)の和とも読める。思うに、この意味の和こそ茶の湯の行程全体を支配する精神をさらによく表しているようだ。調和は形の方を意味するが、和悦は内的感情を示唆する。総じて茶室の雰囲気はむしろこの種の和を周囲につくりだすことである。」(同、125頁。)

■ 敬)とは?

「『敬』とは元来宗教的感情ー憐れむべき死に身たるわれわれ以上の存在物に対する感情である。(中略)この感情をその本来の意味にさかのぼって分析すると、自己の無価値への反省、すなわち、肉体的にも知力的にも、道徳的にも精神的にも、その有限性の自覚となる。この自覚が自己を超越したいという念、できるだけ反対の形をとってわれわれに対立するところの存在と接触したいという念を心中にひき起こす。この熱望はわれわれの精神的の動きをわれわれの外なるものの方にむかわせるが、それがそれて自己に向かうと自己否定、慚愧、健常、罪悪感となる。これらはみな消極的の徳であるが、積極的には敬、他人を蔑ろにせぬ感情となる。」(同、130頁。)

■ 清)とは?

「茶の湯の精神を作る一つと考えられている『清』は日本的心理の寄与であるといってよい。清は清潔であり、ときとして整頓であり、茶の湯と関係するいかなる事、いかなる場所にもこれを窺うことができる。露地と称する茶庭では清水を自由に使用するが、自然の流水をできぬ場合には手ぢかに石の手洗鉢がある。茶室に一塵も止めぬはいうまでもないことである。」(同、132頁。)

■ 寂)とは?

「寂は日本語の’さび’である。が、’さび’は静寂より内容が広い。寂にあたる梵語のSantiは事実『静寂』『平和』『静隠』を意味し、寂はしばしば仏典では『死』または『涅槃』を指すために用いられてきた。しかし、この語が茶の湯に用いられる時には、その指すところは『貧困』『単純化』『孤絶』などにちかく、ここに’さび’は’わび’と同一語となる。」(同、136頁。)

■ 侘び)とは?

「そこでわびの生活はかように定義されよう。貧乏のうちに深く蔵されているところの、言葉では表しがたい静かなよろこび、と。茶の湯はこの観念を芸術的に表現しようというのである。」(同、138頁。)