◇ 禅って何?

「禅」という言葉を聞いて、パッと思い浮かぶイメージは何でしょう?

「坐禅、修行、悟り」といった、どこか近寄りがたいイメージかもしれません。あるいは「わびさびのある、洗練されている、シンプルな」といった、身近に感じられるイメージかもしれません。

元々「禅」という言葉は、坐禅を中心とした修行をする仏教の一派(禅宗)の中で使われる、いわば宗教用語でした。

ですが「禅(Zen)」は、今や「生活スタイル」や「製品デザイン」を表す言葉としても一般的になり、本や雑誌の特集で目にすることも増えました。

集中力を高める・気持ちを落ち着かせるため、坐禅を体験する人も増えているようです。

しかし、改めて「禅とは何か?」と問われると、シンプルに答えることは難しいものです。

坐禅堂

坐禅堂

坐禅堂(続き)

坐禅堂(続き)

◇ 永平寺の禅

私(寺尾)のいる福井県には、永平寺という禅寺があります。
人里離れた山奥にあり、冬は雪に閉ざされる、秘境にあるような禅寺ですが、日本のみならず、世界的にも非常に有名な禅寺です。

この永平寺は、三大禅宗の一つ、曹洞宗の大本山(本部)です。
開祖・道元による建立から約800年の歴史があり、全国から修行僧が集う修行道場でもあります。

永平寺を中心とする曹洞宗の禅(以下、禅)は、約800年前の建立当時に定められた厳しい戒律をずっと守り続け、今に至っています。

坐禅を基本としながら、朝の洗顔から食事の作法まで、生活の所作が事細かに定められており、「日々の生活で禅を実践する」ことを重視します。

永平寺

永平寺(山門)

■ 永平寺・修行僧の一日(イメージ)

03:30 起床・洗顔
03:45 坐禅(約40分)
04:30 読経
06:30 説法
07:00 朝食
08:00 廊下の雑巾がけなど(作務)・講義
11:00 読経
12:00 昼食
13:00 掃き掃除や下草刈りなど(作務)・講義
16:00 読経
17:00 夕食
18:00 講義・説法
19:00 坐禅(約40分)
20:00 坐禅(約40分)
21:00 就寝

修行僧の一日、いかがでしょう?

禅の修行というと「一日中、心穏やかに坐禅をしている」という「静」の修行がイメージされますが、実際は起床から就寝まで、肉体的・精神的に目まぐるしい「動」の修行です。

坐禅は、基本的に一日3回(朝1回・夜2回)。
その他は、掃除などの作業(作務)が日中の多くの時間を占めています。庭や境内の掃除、雪囲いなどの作業(作務)も修行の一つですから、手際よく徹底的に行います。

食事は、少量の粥とおかずが基本のため、目まぐるしい修行を行う修行僧は常に空腹に耐えなければいけません。栄養の偏りから脚気(ビタミン不足)になる修行僧も出るようです。

「日々の生活が修行」、その言葉に偽りのない厳しい修行と言えるでしょう。

修行僧の修行期間に明確な定めはありませんが、平均すると約2年で修行を終え、全国の曹洞宗のお寺に僧侶として戻るようです。

この永平寺の存在により、福井という土地は「禅」が身近にあります。

私自身も、「日々の生活が修行である」という禅の教えに共感するところがあり、週に一回、曹洞宗の禅寺に参禅して坐禅をしています。

坐禅中...。

坐禅中…。

◇ 『正法眼蔵』について

永平寺を建立した道元は、自身の説く「仏法の教え」と「その実践方法」を『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』という書物に書き記しています(未完)。
この『正法眼蔵』は「曹洞宗の聖典」と言えるもので、今に至るまで約800年、その教えは厳格に守られてきました。

『正法眼蔵』自体は、巻数も膨大、内容も難解なため、いわゆる「読書感覚」で気軽に読めるものではありません。仏教思想家「ひろさちや」さんも、『正法眼蔵』を読むのであれば、一般的な禅の解説書としてではなく、「仏教を理解する智慧を言語化しようとした哲学的思索の跡」(哲学書)として読むことを勧めています。禅に興味のある方は、まずは書店に並んでいる「禅の入門書」を手に取ってイメージを掴んでみると良いでしょう。写真も解説も豊富で分かりやすいです。

禅寺と石庭

禅寺と石庭

芭蕉と句碑

芭蕉と句碑

◇ 禅についての理解

私の禅についての理解も、まだ発展途上にあります。禅の理解を深める上で、テレビ番組「100分de名著 」(NHK・Eテレ)が大いに参考になりました。『正法眼蔵』特集(2016年11月放送)では、先述の仏教思想家「ひろさちや」さんがとても分かりやすい解説をしていて印象に残りました。この放送の解説テキストは、『100分de名著 道元 正法眼蔵』(NHK出版,2016年)として発売されています。

「100分de名著 」では、「禅のエッセンス(思想原理、思想のキー・コンセプト)」を次の4つに分類しています。

■ 4つのエッセンス

1. 身心脱落(しんじん・だつらく)
・・・・ 身も心も空っぽに。

2. 諸法実相(しょほう・じっそう)
・・・・ すべてあるがままに。

3. 修証一等(しゅうしょう・いっとう)
・・・・ 修行も悟りも同じもの。

4. 只管打坐(しかん・たざ)
・・・・ 生活のすべてが修行。

一読して、いかがですか?
「シンプル、かつ、難解」いわば「結論だけ」なので、きっと面食らったことでしょう。
しかし、その結論に至る「過程や思考」を知ると「なるほど!」と感じられると思います。

まずは、禅における「悟り」の考え方から始めていきましょう。

「悟り」と聞いて、思い浮かべるイメージはどんなものですか?

「厳しい修行の末にようやく得るのが悟り。悟れば、悩むこともなく心安らかになる…。」

これが、多くの人が「悟り」について抱くイメージではないでしょうか。

実は、禅宗では「人間は皆生まれながらにして、すでに『悟っている状態』」と考えます。
つまり「悟り」は、厳しい修行をして「得る・至る」ものではなく、生まれながらに「備わっている」ものなのです。

では、生まれながらに悟っているのなら、なぜ修行をする必要があるのでしょう?

それには「自我」が大きく関係しています。「自我」は「わたしは私」という意識です。
自我があることで、私たちは「わたし自身」と「わたし以外(他人・世の中)」を区別します。
つまり「わたしとあなたは違う存在」という自覚です。この自覚があるからこそ、コミュニケーション(意思疎通)が成立します。

わたし以外の相手がいるからこそ、一緒に頑張る、励ましあう、喜びを分かち合う、そういう素晴らしい感情が芽生えます。これは、わたし一人だけでは生じない感情です。

しかし一方、欲望、怒り・妬み、不安・悩み、疑い・迷いといった煩悩(ぼんのう)も、わたし自身とわたし以外の相手を比較するからこそ生じる感情です。

自我があること自体は、良くも悪くもありません。
問題は、自我が他人に対する過剰な対抗意識や競争意識につながることです。

それならば、「そんな自我は、いっそ投げ捨ててしまえ!」というのが、1.身心脱落、2.諸法実相という考えです。

「悟り」というのは、「自我も価値判断もなく、自分も他人もすべての存在が等しく一つに溶け合っている状態」です。

もし悟りを求めてしまうと、自我を持って価値判断をしてしまうことになります。
これでは「自分と他人が溶け合っている状態」になることは決してありません。

つまり「悟り」とは蜃気楼のようなもので、求めると遠ざかり、決して辿りつけないものです。
悟りを求めても得られないのであれば、悟りを求める「自我」の方を消滅させて「悟りの世界」に溶け込む。道元の記した1.身心脱落、2.諸法実相は、そんな逆転の思考法なのです。

「悟りの世界」とは、自我も価値判断もない「ただあるがままの世界」と言えます。
ですから、悟りは一般のイメージとは大きく違うものです。

悟りは「求める」ものではなく、「手放す」ものなのです。

禅のエッセンスをまとめると、以下の4つになります。

1. 身心脱落(しんじん・だつらく)
・・・・ 悟りは求めても得られるものではない。悟りを求めている自己を消滅させるのだ。

2. 諸法実相(しょほう・じっそう)
・・・・ わたしたちの目の前にある、ありのままの世界を認識し、「いま」、「ここにある」、「このわたしを」生きるのだ。

3. 修証一等(しゅうしょう・いっとう)
・・・・ 悟りを得るために修行をするのではない。悟りのなかにいる仏であるからこそ修行できるのだ。

4. 只管打坐(しかん・たざ)
・・・・ 坐禅だけが修行ではない。ひたすら坐り抜き、歩き抜く。その姿こそが仏であり、悟りである。

◇ 道元のラスト・メッセージ

曹洞宗の聖典と言える『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』ですが、道元は、この大著を書き終える前に没しました。道元は亡くなる直前まで、この本の「八大人覚(はちだいじんかく)」という巻を書いていました。つまり道元の絶筆となった巻です。

この「八大人覚」の巻には、「大人」として自覚すべきことが示されています。
道元の言う「大人」とは、生物学的に成長しただけの「おとな」ではなく、真に人間としてふさわしい分別を備えた「人物」を指します。その分別とは、以下の8つです。

1. 小欲(しょうよく)
・・・・ 物足りないものを、あえて物足りないままにしておく。

2. 知足(ちそく)
・・・・ 与えられたもの全部を、自分のものとしない。他人のために一部を回す。

3. 楽寂静(ぎょうじゃくじょう)
・・・・ 静寂を楽しみ、騒がしい場所を離れる。

4. 勤精進(ごんしょうじん)
・・・・ 善き事に努力する。ただし、自分一人の利益のために頑張らない。

5. 不忘念(ふもうねん)
・・・・ 常に仏の教えを忘れない。

6. 修禅定(しゅぜんじょう)
・・・・ 心静かに瞑想し、真理を観察する。

7. 修智慧(しゅちえ)
・・・・物事をあるがままに見ることができる「眼」を養う。

8. 不戯論(ふけろん)
・・・・ 無駄な議論はしない。物事をあるがままに単純そのままに受け取る。